木へ

少し前に死にかけていた知り合いは最近亡くなった。彼が生活するには人手が必要で、彼の周りには家族でも恋人でも友人でもなんでもない人がいつもたくさん居た。なんでもないってじゃあなんなのさ、っていうとまぁ単に介護者と呼べば早いのだけれど彼は(少なくとも彼の属していた団体の信条としては)一般的な障害者アンド介護者的な関係性を望んでいなかったし、実際一般的な介護者障害者関係からは外れていたと思う。一般的な障害者と介護者的な関係性というものを説明するのは難しいのだけど、なんというか仕事で介護してる訳でもなくボランティアでもなく友達でもなく、というのを彼は目指していた。「障害者にとっては生活することが既に社会運動なんや」と誰に吹き込まれたのか知らないが彼は言っていたが、それも近いような遠いような。介護っていうのは仕事だろうがなんだろうが障害者と介護者が深く関わらざるを得ないので、そこに生まれる関係性に一般性などあり得ないのかもしれない。そう考えると、生活時間のほとんどを深い関係性を持った他者と過ごさなければならなかった彼は、さぞかし気疲れしただろうな。

何がいいたいのか自分でもよくわからないけれど、とりあえず事実としては、彼の介護に関わっていた人々は悲しみ方もよくわからず混乱していたりして、追悼集会やろう、とかベタなこと言い出したりしてて妙な感じだ。今度形見分けの話し合いをするそうだけどそれは俺ももらえるのか。別に欲しくない。

自分はと言えば通夜や告別式に出てはみたもののいまいち実感がわかず、火葬場までついていって骨も拾ったがそれでもやはり実感がわかなかった。

出棺の時に彼の甥がまっさきに、介護者連中に礼を述べていた。そのときはなんか少し泣きそうになったけど、「叔父のお世話をしてくれてありがとう」とかいうもんだから、お世話じゃねぇ、と少し苛立ってうやむやになった。

最近は熱かったり寒かったりで間違えて寒い日に半袖で出かけてしまったりして困る。

とりあえず髪を切りたい。